2011-08-10 第177回国会 衆議院 決算行政監視委員会 第6号
○菅内閣総理大臣 九三年当時の議論を思い起こしておりましたけれども、それまで私が、それこそ楢崎先生などと一緒におりました社民連という政党は、今御指摘のドイツの併用制というものがいいのではないかということを主張した時期もありました。九三年の中では、たしか当初は二百五十、二百五十の並立制というものが提案され、その後、いろいろな変化の中で現在の形になってきたと思っております。
○菅内閣総理大臣 九三年当時の議論を思い起こしておりましたけれども、それまで私が、それこそ楢崎先生などと一緒におりました社民連という政党は、今御指摘のドイツの併用制というものがいいのではないかということを主張した時期もありました。九三年の中では、たしか当初は二百五十、二百五十の並立制というものが提案され、その後、いろいろな変化の中で現在の形になってきたと思っております。
その後、江田三郎さんが亡くなられて、五月さん、あるいはそういった皆さんと、翌年に田さん、楢崎さん、そういった皆さんと一緒に社民連という政党をつくりました。そのとき以来、私にとっては大変尊敬すべき先輩議員であり、今日も大変ある意味で私のことを心配してくださっております。 〔委員長退席、平(将)委員長代理着席〕
かつて国会の爆弾男と言われた往年の政治家、野党でございました、楢崎弥之助氏、菅総理とは社民連時代に行動をともにされたこの楢崎弥之助氏、この方は菅総理にとってどういう人物であり、お方ですか。
私は、当時、社民連という政党で、党首は田英夫さんでありました。社会党の多くの議員と、そして私の属していた社民連と、それから公明党からも何人かの議員の方がそういう趣旨だという前提で署名をいたしました。
また、大臣は、菅総理と社民連時代からあたかも師弟関係というような関係でいらっしゃると思います。その大臣から見られて、今の菅内閣についてどういう評価をなさっているでしょうか。
私は、基本的には、そこで言われているように、ゾーニングというよりも、本来は自治体ごとに、この土地はこういう目的には使っていいけれども、こういう目的には使っていけないというのを条例手続でやるべきだという、これはドイツの案でありますけれども、それを国会にかつて社民連時代に提案したこともあります。
きょうは、ここにパネルも準備しておるわけですが、一九八九年には、当時社会党、民社党、菅総理もおられた社民連が一緒になって、企業献金の三年後禁止ということを提案しています。もう二十二年も前のことなんですね。 総理、先ほど、この一年でみたいなことをちらっとおっしゃいましたけれども、総理もいつまで総理をやっておられるかわからないじゃないですか。何年もかけるような話じゃないと思うんですね。
当時、薬の使い過ぎというようなこともありましたので、私は社民連という、社会労働委員会でただ一人の委員でありましたが、薬の方の自己負担を若干高くして、そのかわりに高額療養費の上限を下げるという案を出したことを今でも覚えております。残念ながら一人しか賛成者がいませんでしたけれども、そういう思い出を持っております。
そしてその後、江田五月さんたちと一緒に社民連という政党をつくりました。そしてその後、民主党、あるいはその前にさきがけという政党に、結成に参加をし、その後、民主党の、旧民主党の創立に携わりました。 私の理念は、政治的な理念は、幾つかの柱がありますが、国民主権というものが私の基本的な柱になっております。つまりは、今までの政治が本当の意味で国民主権として動いてこなかったんではないか。
○内閣総理大臣(菅直人君) 柳田現大臣に関して、昨日も申し上げましたが、私、私の方が少し当選は早いわけですけれども、社会労働委員会にいたときに柳田さんが当選されてこられまして、当時は民社党の柳田さんと私が社民連の立場で、比較的小さな党でありましたので、いつも質疑は柳田さんの後私がやっておりまして、個人的にもそのころから親しくさせていただいておりました。
○内閣総理大臣(菅直人君) 私は、当選してしばらくの間、社会労働委員会におりまして、ある時期、薬価とこの高額療養費払いのことをいろいろ議論して、薬価は多少自己負担を増やしても高額療養費はその時点で少し下げて、そういう形で、薬の使い過ぎと当時言われてましたので、それを抑えながら、しかし一方で負担が余り超えていかないようにしたらいいんじゃないかという案を、当時委員会に、一人でありましたけれども、社民連一人
○内閣総理大臣(菅直人君) 私、柳田現大臣とはかなり古くから、かつては私は社民連、柳田さんは民社党という立場で、衆議院の特に社会労働委員会に同席をいたしておりました。そのころからいろんな会話を交わしてきた長い関係があります。そういう中で、経験も豊富だし、そういった人格、識見含めて十分にこの重責に堪え得る、そういう人材だと、そう考えまして法務大臣をお願いした次第であります。
当時総理はまだ社民連の代議士として活躍をしておられたと思います。 政治改革が実現しました。したがって、政権交代というのはいつか起こるんだ、そうずっと私は思ってきました。昨年、残念ながら自民党は政権を失いましたが、これは、日本の政治全体にとって貴重な経験だと思います。民主党も今政権運営の苦しさを味わっている、我々自民党は野党の悲哀を味わいながら再起を期している。
当時、社会党を中心に、その人たちに対するそうした釈放要求をしたいということで、公明党からも署名が集められ、当時私は社民連という小さな政党におりましたが、田英夫さんが党首で土井たか子さんとも近かったものですから、こういう趣旨だということでこの協力要請がありましたのでサインをいたしました。しかし、その要望書の釈放要求の中に辛光洙という名前が入っていたということは私は全く知っておりませんでした。
かなり以前なんですけれども、全斗煥大統領が来日をされるという前に、在日韓国人であった皆さんの中で、韓国で民主化運動をやっていて、逮捕され、死刑の判決を受けた方などがおられたところ、当時の社会党土井たか子委員長が、そういう在日韓国人で、大学生などで、そういう民主化運動で逮捕され、死刑判決を受けた人の助命嘆願をしたいという趣旨で、関係する社会党はもとより、公明党、そして、私は当時社民連という政党におりましたが
○菅国務大臣 坂口先生とは、私、社民連の政調会長を長く務めまして、社会党、公明党、民社党の皆さんとともにいろいろな仕事をさせていただいておりまして、きょうは久しぶりにこういう形でお話しできるのを本当にうれしく思っております。 それから、この問題、私もかなりかかわってまいりましたが、基本的には、私の理解では、二つの図は重なるというのが前提だと思っております。
○国務大臣(菅直人君) 当時、社民連というのは五名の国会議員ですから、公明党の方が何名だったか分かりませんが、一けただったと思います。つまり、大多数は社会党の、当時委員長がどなただったかは覚えていませんが、まさに、方が中心になって集められた署名です。 それから、もう一つ岸議員にお聞きしたいですが、現物なり現物のコピーをお持ちですか。私は大分探しました、率直に言って。
私は当時社民連という小さな政党におりまして、時の代表は昨年亡くなられました田英夫さんでした。田さんから、こういう趣旨だから、つまり、日本で生まれた在日韓国人の方が韓国で民主化運動をやった、そして捕まった人を釈放するための署名だから署名してほしいと言われました。私は、その趣旨ならいいでしょうということで署名しました。
また、もう一言だけ言いますと、私、初質問が、先日亡くなられた田さんの社民連というところで、十五分だけ、当時の社会労働委員会で初質問したのを今でも覚えておりまして、そういう点では、進次郎さんは一時間というしっかりした時間があっていいな、そんなことも思ったところです。
私たち民主党は、もちろん一九九三年の後に結成されて、一九九三年以前、つまりは自民党とか社会党とか公明党とか民社党とか社民連とかという政党に属した経験のない人が、今や八三%、我が党の国会議員を占めております。そして、そのうちの大部分は二世、三世の議員ではありません。数えてみたら六%でした。
私は社民連の代表として入閣をしました。その他の各党もそれぞれのトップが入閣をした。全部は覚えておりませんが、それぞれずっとトップが入っています。 それはおいておいて、そうすると公明党の立場は、これは坂口さんに聞けばいいということになるんですか。坂口大臣、いかがですか。
私は、かつて社民連時代に国鉄改革で逐次地域分割、非公社化という案を出したことがあるんです。つまり、国鉄改革はいろんな案があるけれどもどれもどうしても実現できない。だれが責任を持ってやるかがわからないからできないので、そういう責任主体をつくるところからまずということを提案したことがございますが、同じような気持ちを今も持っております。
特に九一年に育児休業法が制定されて以降は、次の課題として介護休業制度、短時間勤務制度の法制化に取り組むということを最重点に進めてまいりましたし、このことについて中央執行委員会で確認をし、当時の社会党、公明党、民社党、社民連、連合参議院にお願いをし、共同法案を作成して国会における働きかけを要請してまいりました。
そういう意味で、大臣みずからかつての社会党、社民連の共同提案的な考え方で今後再検討していくんだというようにはっきりと言明されたということは高く評価し、ぜひ今後の前向きの進め方を期待したいというふうに思います。 それに関連して、そのときは、共同提案は、政府の修正案が可決されましたから議決に至らなかった。ただ、その政府の修正案が可決したときに附帯決議がついている。
それで、さすがに社会党さんはかつて、大臣御承知のように、社民連と共同提案を都市計画法の改正のときにやられたんですね、一九九二年。この社会党と社民連の共同提案というのは、そういう観点からすると、まだ我が党の意見を聞いているわけじゃありません、私は個人的には大変そういう住民参加ということを考えた点では実に前向きなんじゃないかというように思うんですね。